新自由主義

生活保護バッシングのフェイクが無造作に行き渡り、個人・家族の「落ち度」へ集中攻撃する日本社会と「福祉国家的エートス」

日本が培ってきた「企業主義的エートス」

 「福祉国家的エートス」などという社会心情がはたして存在するのか? そう思うのは日本では自然のことかもしれない。福祉国家という政治・社会体制に特有でふさわしくもある心性を想像しにくいからだ。とはいえ、制度文化という観念があるように、社会的諸制度の形成・存立が培ってきた心情や意識は現実に存在する。企業戦士という言葉が象徴する「企業主義的エートス」――それがどれだけのリアリティを持つかは別として――が、日本企業の制度文化に特徴的な心性を意味していたことは事実である。初芝電産島耕作の物語もNHK「プロジェクトX」(2000~2005)の企業戦士サーガも、日本社会に特有の企業文化という地盤抜きでは生まれ得ないであろう心性を描出していた。

日本社会では「怠け者を育てるしくみ」とされる福祉国家の強固な制度

それで、「福祉国家的エートス」のことである。年金生活を「退職・自由・ルネッサンス」と、解放の実現だと感じさせる制度(都留民子『失業しても幸せでいられる国』日本機関誌出版センター)や、何重ものセーフティネットによって失業を恐れずにすむ制度は、それにふさわしい心性を育てるにちがいない。新自由主義化された社会では「怠け者を育てるしくみ」と悪しざまに言われるそれらの制度は、しかし、そこに暮らし働く人々の共同的心情に支えられて強固な制度基盤を持つようにみえる。「労働運動の図書館はコミューンの図書館となり、その自助基金は、健康保険や失業保険として社会保険制度に組み込まれて」ゆく(石原俊時『市民社会と労働者文化 スウェーデン福祉国家の社会的起源』木鐸社)共同・連帯と集権化との福祉国家体制のダイナミズムが矛盾を孕んでいたとしても、である。あるいは、協議経済とその思想的根拠である「生活形式」の民主主義とによってかたちづくられた「共同関係」が「開かれた不安定な均衡」であるとしても(小池直人『デンマーク 共同(サム)社会(フンズ)の歴史と思想』大月書店)だ。

福祉国家的な制度(国民皆保険、公教育の平等主義)への共有感覚の乏しさ

ひるがえって日本をみよう。まがりなりにも制度として定着してきた国民皆保険――もちろん、貧困化がもたらす無保険状態の存在を無視すべきではない――は、米国での医療保険の惨状を知った日本の人々が多少の誇りと感じても不思議ではない対象だろう。学校教育システムの平等主義的な設計もまた、その実態はともかく、階級的制度文化の桎梏から抜けきれないしくみや新自由主義的競争がスタンダードの教育体制に比し、好ましい制度的価値とみなされてよいはずである。

だが、残念ながら、おもてなしの「美風」にたいする自画自賛はあっても、福祉国家的な制度の価値を認める共有感覚は乏しいように思う。当たり前の制度は当たり前であるがゆえに、「そういうものだ」と常識的にとらえられ、取り立てて賞揚すべき価値として意識されないのかもしれない。「公立小学校ならどこも同じようで、その何が大事なの?」というわけである。

しかし、「そういうものだ」という感覚が真の意味でコモン・センスであるなら、たとえば公教育の平等主義を変質させ解体する制度改変にたいして鋭く反応し異議を発することも当然のはずである。ごく一部のエリート教育を非難するかどうかではない。もはや同じ高校、高校生とは言えぬほど進んだ格差教育とこれを正統化する政策・制度の進行が常識外れの、座視できない事態と受けとめられるかどうか――それが問題なのである。「福祉国家的エートス」と呼ぶのは、社会が共有すべき制度価値にたいするそのようなコモン・センスに他ならない。そう考えると、現代日本の「福祉国家的エートス」はあまりに脆弱なのではないか。それは一体なぜなのか。

生活保護バッシングのフェイク=印象操作(「不正受給」連想)が無造作に行き渡る

生活保護基準の切り下げ政策を扇動するかのように繰り返される生活保護バッシングが生活保護にかんするポピュラーな認知に少なからぬ影響を及ぼしてきたことは否めない。読む者の胸を悪くするような極論を吐くネット上の言説が多数でないのは無論であるし、むしろ炎上を意図してのそれらの暴言に多数の人々が乗せられてしまうわけでもない。しかし、それでも、生活保護という言葉を聞いて最初に「不正受給」を連想する認知のあり方は、たとえば大学生レベルの社会像では特異ではなく少数でもないだろう。生活保護の現実をつたえようとするとき、まず、「不正受給」と言われることの中味や、文字通りの不正受給がどれほどの比率かを説明しなければならない状況は異常ではないのか。そもそも、「生保(なまぽ)」という言葉で、何か後ろ暗い生活の印象を与えるような印象操作が無造作に行き渡っている。

生活保護という制度とその役割についても、生活保護受給世帯の現実についても、事実にもとづく丁寧――安倍政権の常套句としての「丁寧」ではない――で明白な説明を届けようとする努力はもちろんある。読んでさえもらえれば、聞いてもらえるなら、生活保護バッシングのフェイクなど反駁の余地なく撃退できるはずなのだが、ことがらはそれほど単純ではない。少年犯罪が総体として減少しているにもかかわらず認知上では少年犯罪の凶悪化、増加が信じられているのと同様に、ポピュラーな認知次元では、「不正受給問題」が生活保護制度の中心課題であるかのように受けとられている。

真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱が広がる背景

正しい認識を得る(真実性の次元)ことで何が問題かを知るという認知モデルが通用していない点に注意しよう。知る機会が保障されていない環境の問題を指摘すべきはもちろんである。良く考慮された啓発活動を制度化することで前述の認知モデルをはたらきやすくすることも必要だろう。ただ、ここで考えたいのは、真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱という現象であり、そうした現象が広がる背景である。

ひとたび、「こんな不正受給が」とつたえられるとあっという間にバッシングが広がる。生活保護のみならず、耳目に触れる事件が起きるたびごとに、いまでは見慣れた情景である。加害者としてであれ被害者としてであれ、メディアにつたえられた瞬間から、さらしと激しいバッシングとが集中する。その様は、「誤爆」を含む集団リンチの無法状態が現出しているといって過言ではない。ニュースの俎上に上されることがもう、当事者の欠陥(有罪)を証明しているかの如き取扱いである。逆に言えば、「美談」は徹底して美談でなければならず、それに疑問を呈するのは人非人の所業ということになる。

ルサンチマンでなく「中産階級以上のポジションと心情」「真実性を凌駕する真正性」によるバッシング

こうした社会心理的反応は、バッシングの構造・動態、対象の差異等に応じてモラル・パニック、ルサンチマンといったカテゴリーで説明されてきた。この点には立ち入れないが、昨今の「大衆リンチ」状況をそれだけでは説明しきれぬように思う。福祉国家的諸制度の恩恵に与れない層が、そのルサンチマンからバッシングを向けるという図式は、制度の貧困・脆弱があきらかなゆえに納得してしまいそうだが、大勢としての事実に反する。「自分がしっかりしていれば制度に頼らずに何とかなるはず」という信念は、中産階級以上のポジションと心情の体系でこそ強固なのである。

他者へのバッシングを正当な振る舞いとして許容できる社会心理的反応(スマホやPCで悪意ある投稿をしたことのある者はざっと4人に1人、投稿後の心理で一番多かった回答は、「気が済んだ、すっとした」31.9%、「やらなければよかったと後悔した」13.6%、「何も感じない」27.6%。独立行政法人情報処理推進機構「2014年度 情報セキュリティの倫理に対する意識調査」)は、何が適切で正しいかを真正性 authenticity という次元で解釈し了解する認知モデルが浸透した結果だと筆者は考えている。「私にとって正しいと思えること」の根拠を与える真正性は、「そう思う(信じる)私」の立場(居場所)を直接支える力を持ち、その意味で真実性を凌駕する。このメカニズムの詳しい検討もここではなし得ないが、気軽にバッシングを向けてしまえる相互的心性の領域がそうして開けたのである。

社会的次元を抹消した自己責任、「新自由主義的エートス」が貫かれた日本社会

誰もが何らかの「欠陥」を露呈させた科でバッシングを浴びせられる社会は、「新自由主義的エートス」が貫かれた社会と言えるだろう。人が社会的存在であるかぎり、個人が抱える様々な事情は必ず社会的広がりを持つ。にもかかわらず、ことがらが「失敗」や「不始末」、「不注意」、「不出来」等々の領域つまり社会的にマイナスと評価される結果であるとき、それらはもっぱら個人の落ち度とみなされ、問題の社会的次元は抹消される。自己責任という観念はそうした特異な有責の構造とこれを心情次元で支える個人(人間)観とを指す強力なイデオロギーである。

社会的紐帯を断ち切り個人を有責の構造上におく暴力的振る舞い

生活と人生すべてをその人個人の有責の現れとして断罪し攻撃することは、人が現に持っている、ないし持つ可能性のある社会的紐帯を言語行為上で断ち切り、社会的世界への参加 social intercourse を途絶させる振る舞いといえる。言語行為というのは、この振る舞いが、断罪される当事者にたいするリアルで暴力的な規制力を持つからだ。生活保護受給世帯の高校生が好きな歌手のライヴに行くこと、ファンサークルに入ること…を非難するのは、現実に激烈な効果を及ぼす点で、たんなる言葉のやりとりでも意見表明でもない。

バッシングの持つ暴力的作用をよく知悉したうえで、攻撃対象にダメージを与えるため意図的に極端な暴言を繰り返す煽動者が、特にネット社会に存在することは周知の通りである。さすがにそれは許されないという暴言の場合、人権侵害を問われるものもあるが、いまや遍在するバッシングの威力に十分対抗できるだけの力を備えているとは言い難い(ネット上での差別は仕方ないと答える者が若年層ほど増加しているとの調査報告もあり、人権侵害というとらえ方がどれだけ通用するかも実は疑わしい)。さらにまた、社会紐帯を断ち切るという作用に焦点を当てたとき、侵害されている人権の中味についてより立ち入った検討が必要だとも感じる。言いかえれば、「平等な社会権を基礎づける」「当該社会の〈富とリスク〉相互の普遍的共同性・集団性」(竹内章郎・吉崎祥司『社会権』大月書店)を念頭におくとき、侵害されているのは何かという問題である。富についてもリスクについても、またその相互関係についても現実として共同的・集団的だという前提に立つなら、金のない人間が好きな歌手のライヴに行けるような〈富とリスク〉の相互関係に焦点が当てられて当然なのである。問題にすべき焦点のそうした転換は、あらゆる社会紐帯を切断し個人を有責の構造上におく振る舞いの威力を減衰させるはずである。

自立という観念自体を変質させる個別化された社会

誰もが有責の存在として個別化される社会は平等にみえるが、実際には社会的弱者に著しく不利な社会である。人を互いに依存させず、制度に頼らせない自立を要求する社会は、自立的存在を富の私有によって生存に不可欠な諸資源を調達できる者だけに限定し、自立という観念自体を変質させる。そこに「福祉国家的エートス」など育ちようのないことは明白だろう。家庭の経済的事情で満足な学校生活が送れない子どもに同情を寄せ、制度の支援を当然と感じる心性は、そうした場所におかれた子どもや家庭それぞれの個別化された状況(「品行」「言動」…)を問題化する、多分に制度化されステロタイプ化された言説によって壊死させられてゆく。

徹底した社会的排除の状態におかれる若者たち

そもそも福祉国家の制度価値が共有されるほど十分な制度枠組みと制度実践のない社会で「福祉国家的エートス」の涵養を問うことに無理があると言われれば、ここまでの議論はそれで終わりである。しかし、福祉国家型の諸施策をふくめ、社会の連帯的なあり方を体制として構築しようとする運動は、それぞれの社会に特有の歴史的・社会的環境に培われた社会紐帯のポテンシャルを無視することはできず無視すべきでもない。たとえば、エミリア・ロマーニャ州を中心とするイタリアのスローフード(スローシティ)運動が反ファシズムの伝統を社会文化的に継承していたように、ある社会や地域に歴史的、社会的に堆積してきた種々の関係資源は、総じて、反新自由主義的な社会の構築に有用たりうる。正しく新自由主義的と呼ぶべき社会紐帯の切断(無縁社会化)の振る舞いを見逃さず、具体的に対処してゆく必要があるのはそのためだ。「死にたい」とつぶやく若者たち――それは本音ではないとの評言があるが、社会退出のアクティベーションとして十分にリアルで「実行可能」な望みである――のすがたは社会病理として語られるが、それは一面的に過ぎる。現実に起きているのは、推測するに100万人を優に超える若者たちが、現実的にも内面機制の上でも、徹底した社会的排除の状態におかれていることであり、膨大な「死にたい」つぶやきはそのリアルな反映に他ならない。

家族を一体化させた家庭責任の追求、家族の「落ち度」への集中的攻撃

個体化させた個人を有責の構造上におくバッシングについて補足したい。個人の「落ち度」に対する集中的攻撃は、家族にも及ぶことが当たり前となり、家族関係を危機にさらし崩壊に導く事例がつたえられている。社会的引きこもりやニートにかんする理解でも、家庭環境や親の養育に責任があるとする回答が各種調査で多数を占める。個人責任というより家族を一体化させた家庭責任を追求する意識がきわだって強いように思われる。この傾向が歴史的に亢進させられてきたかどうかは検証を要するが、あたかも家族紐帯を運命共同体であるかように考え扱う社会感情が想像以上に強力になっていることは、おそらく事実と言えよう。

これは少なくとも家族紐帯だけは社会紐帯の内で壊せぬ絆とみなされていることを意味するのだろうか。

伝統的家族主義では説明できない運命共同体というフィクションを被せられ、より一層強い衝迫の源泉となる家族

むしろ現実は逆なのではないか。最後のセーフティネット役割を負わされた家族が、その現実態ではもはや「安全でいられる場」としての役割を果たしにくくなっているがゆえに、運命共同体というフィクションを被せられた家族像が、「そうでなければならない現実」のように思いなされているのではないか。自民党家庭支援法案のように右翼的な家族主義を家族像の範型とする政策がこれに無縁でないのはもちろんだが、頑強な信念といってよいほど強力な運命共同体家族の像に現れた家族主義は、伝統的家族主義の枠組みだけでは説明できないように感じる。社会的次元を切り落とされた個体の位置に家族がおかれる構図は新自由主義的であり、有責の構造上に家族が立たされることもそうである。運命共同体がフィクションであることは、そういう場に立たされた家族関係が瓦解するというリアルな結果によって実証される。運命共同体であるなどと信じられないからこそ、そうした不安定さの実存が家族紐帯の強度を求める、より一層強い衝迫の源泉となる――このメカニズムを解くことによって、今日の家族主義に特有のすがたが浮かび上がるのではないだろうか。

成人式の晴れ着のように、一生に一度のイベントを用意することは親、家族の務めとなり、不運な(と認定された)事態でこれが叶わなかった者にはさまざまに支援の手が差しのべられる。卒業式、成人式の晴れ着も入学時のランドセルも、家庭の事情で最初から用意できない者には、それでは、どのような手が差しのべられているか。新自由主義的な社会体制・秩序とそこから生い育つ感覚とによって抑えつけられ逼塞している心情は何か、それを明るみに出してゆくやり方はどんなものか――目を向け社会的注意を払うべきは、「福祉国家的エートス」の居所を探り当てようとする多様な試みと努力ではないだろうか。

中西新太郎(横浜市立大学名誉教授)

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